辻副会長指導

略歴

戦前の創価教育学会からの古参幹部で、青年部長、参院議員など要職を務め、学会内では指導を求める会員らに信頼された存在として活躍した。


亡くなった父は他宗の強信者でしたが、塔供養をすれば救われますか。
 救われます。この塔婆供養については、日蓮正宗宗務院教学部発行の「日蓮正宗の行事」に次のようにあります。
「塔婆は梵語で、スツーパといい、これを訳すると、方墳・円塚・霊廟・大衆(功徳のあつまりの相)ということになります。もともと塔婆は、丸や角の形を積み重ねて一つの体をあらわしています。下から方形(四角)・円形・三角形・半円形・如意宝珠の順序で、五輪の塔に組立てるのが基本的な形で、これは、地・水・火・風・空の五大、すなわち妙法蓮華経の五宇をあらわすことになります。・・・・・」
 「御義口伝に『我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五宇なり』(御書全集七一六ページ)と説かれています。さらに総勘文抄に『五行とは地水火風空なり乃至是則ち妙法蓮華経の五字なり』(御書全集五六八ページ)とおおせられています。
 このようなことから考えますと、五輪の塔婆は妙法蓮華経という仏様の体を表現したものであるという事になります。
 塔婆にお題目を書き『此中巳有如来全身』と経文を書くのは、この塔婆はもう仏様のお体であり、この仏様のお心のなかに、亡くなった人がいっしょにおられるということを示すのです。塔婆を建てるのは、建てる人の信心と追善の願力とによって、亡くなった人の霊を仏身にあらわすのであり、御本尊を通じてお題目を供養するゆえに、その功力を得て亡魂もまた回向する人も大功徳をうけることになります。
 そこで塔婆を供養するにあたって、まず考えなくてはならないことに、人間の死後の問題があります。これは大変むずかしいことで、その解明は、世界のなかで最高の哲理であります。
 大聖人はまえに引用したように、私たち人間の身体も、また宇宙やいっさいの森羅万象も、すべて地・水・火・風・空の五大の元素から構成されいるとおおせです。この五大は分解してはまた集まり、集まってはまた分解するというように、つねに離合を繰り返しています。
 人間もひとたび死ぬと、もとの元素に戻ります。このとき人間を形作っている肉体が分解され、無に帰したようにみえますが、その生命の業( 因縁因果による色心の状態) は永遠に宇宙のなかに生きていくのです。 しかも生前中から死ぬときにいたる善悪の果報を、そのまま死後の世界までもちつづけますから、苦しみ悩み、あるいは間違った教えにまどわされて死んでゆけば死後の世界でも苦を感ずるわけです。
 そして、もし先祖や親戚、知人で亡くなった人のなかに、死後の世界で苦しんでいる人があれば、生きている遺族の側にもその苦しみや悩みが影響してきます。ですから、遺族の人たちの強い信心と御本尊の功力によって亡くなった大が、成仏の境界にならないと生きている人も、この社会もほんとうの幸せにはならないということになります。このことを仏教では『三世の益に欠けるが故に五濁悪世となる』といわれています。したがって、塔婆供養、先祖回向ということが必要になってくるのです。
 まえにも記したように、五輪の塔婆に題目をしたためて、戒名や俗名を書けば、それは亡くなった大の体をあらわしています。
 そして御本尊にお経をあげ、お題目を唱えると、その塔婆は仏界を現じ、御本尊のお力によって亡くなった人の生命に感応するのです。
 この感応妙というのは、御義口伝に『衆生に此の機有って仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす』( 御書全集七一六ページ)と説かれているように、衆生の善根が仏を感じて発動するとき、その衆生の性欲に応じて仏様が慈悲を垂れることで、仏様の心と衆生の心が融け合うことによって仏果を成熟させるのです。
 『成仏したい、成仏させたい』というこちらの一念心を仏様がお感じになるということで、塔婆供養の場合は回向する者の一念心が大切な因となります。これはまことに難解なことですが、塔婆供養はこの感応妙の原理によって、死者が成仏の境界に進むのです。
 草木成仏口決に『我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり』(御書全集一三三九ページ)とおおせられています。
 生きている者が大御本尊にしっかりとお題目を唱えると成仏できて幸せになるように、塔婆供養の原理は自分で意志表示の出来ない亡者や、非情の草木が御本尊の慈悲、お題目の力によって成仏できるのです…… 」
 「たくさんの経文に塔婆供養の功徳が説かれていますが、その要点は次のとおりです。塔婆供養をすると寿命を延ばせる。大きな福運が積める。また未来のできごとを予知できて、事前に悩みや苦しみが除ける。つねに仏様のお慈悲をうけることが出来るなどで、仏法上、とくに大聖人の教えから見ると、塔婆建立の意義はまことに深いものがあります。
 亡くなった人に追善回向をするには塔婆供養が最上の方法で、亡くなった方は塔婆供養を待ちこがれています。大聖人は、十王讃歎抄に『今頼む方とては娑婆の追善計りなり、相構へて相構へて追善を営み亡者の重苦を助くべし』( 新定御書七二ページ)と申されています」
 以上は「日蓮正宗の行事」(やさしい解説) のなかの説明です。
父親が邪宗教をやった方であれば、ねんごろに塔婆供養をして回向することが最大の親孝行になるのです。

(私の個人指導)
他宗の人で、題目を唱えれば唱えるほど不幸になる人がありますが、その理由を教えてください。
 日蓮正宗と他の日蓮宗の関係は、お金にたとえれば本物の札と偽札のような関係です。
 どちらも一万円と書いてあるので似てはいるものの、実際は大違いです。本物め札はなんでも買うことができますが、偽札は見つかつたら警察から厳しく迫及されるでしよう。しかも、本物の札に似ているほど罪が大きいのです。
 同様に、お題目を唱えることは似ていますが、日蓮正宗以外の御本尊は、魔の働きになって、唱えれば唱えるほど不幸になるのは当然のことなのです。
牧口初代会長はこの違いについて次のように指導されました。
 「正宗と他宗の違いは、金や銀、銅や鉛のような違いではない。薬と毒の違いである。正宗が一番よくて金であり、他宗は正宗ほどはよくないが銀や銅のようなものであるなら、それぞれ使い道があることになるが、そうではない。正宗は薬であり、他の日蓮宗は毒なのであり、信ずれば信ずるほど毒薬を飲むように、法罰をうけて不幸になる。それゆえに邪宗なのである」と。
ではなぜ他宗は偽札であり毒薬なのでしょうか。
 第一に、日蓮大聖人を御本仏と知らず、大聖人出世の本懐である弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様に帰依しないで、他の誤れる本尊を拝んでいるからです。
「聖人御難事」に「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年。天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」(御書全集一一八九頁)とおおせです。建長五年四月二十八日に題目を弘められてより、二十七年後の弘安二年に出世の御本懐を遂げられたことは、この御文証によっても明白です。
 現在、日蓮正宗総本山富士大石寺の正本堂の中に御安置される大御本尊こそ、三大秘法の究寛中の究寛の御本尊として、第二祖日興上人以来、唯授一人、金口嫡々の御相承を受けられた代々の御法主上人によって厳護されて今日にいたるものであり、現御法主は六十七世日顕上人であります。
 この日蓮正宗の戒壇の御本尊を否定したり、大聖人の御相承もないのに本尊を書いたりすれば大謗法であります。
 ましてキツネや竜神などに題目を唱えたりするのは、畜生の生命が感応して人間の振る舞いでなくなり、精神分裂も起こすことは珍しくありません。
 そして第二に日蓮大聖人を尊敬するようにみえても、釈尊の弟子として尊敬したり、日蓮大菩薩などと唱えて敬っても、それはかえつて大聖人を誹ることになります。相伝のない悲しさです。日蓮大聖人は仏も仏、御本仏であり、菩薩として敬ったのでは社長を社員と思いちがいをするようなものです。
 「聖人知三世事」には「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」( 御書全集九七四頁)とおおせであり。「種種御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」( 御書全集九一九頁)とも、また「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」( 同頁) ともおおせられています。
 悪しくうやまえば、国が亡びるほどの大罰をうけるのですから、一身一家が不幸になるのは理の当然です。正しい御本尊でなければ、拝めば拝むほど不幸になってしまいます。
(私の個人指導 辻武寿
)
教学の基本について
ただいま、北条理事長より、信徒団体としての基本について確認がありましたが、私からは、これをふまえて、私どもが留意すべき点について申し上げます。
それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません。日寛
上人は「就中(なかんずく) 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐(ほんかい)の中の本懐なり。既(すで)にこれ三大秘法の随一なり。況( いわん)や一閻浮提(えんぶだい)総体の本尊なる故なり」 (観心本尊抄文段)と仰せであります。この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳粛(げんしゅく)なる化儀、伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、よく認識していかねばなりません。
その意味からも、不用意にご謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います。
第二には、唯授(ゆいじゅ)一人、血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重してまいりたいと思います。「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」 (御書一六〇〇頁)とありますごとく、日蓮大聖人の法体、御法門は、すべて現法主日達上人猊下に受け継がれております。ゆえに創価学会は広布を目指し、社会に仏法を弘通、展開していくにしても、その大前提として、猊下のご指南に、いっさい従っていくことを、忘れてはならないのであります。
 第三に、学会員の心情には、長い歴史のなかで、しぜんに会長への敬愛の念が培つちか) われてきましたが、また、それは当然であるとしても、その心情を表すのに、行き過ぎた表現は避けなければなりません。「法華初心成仏抄」のなかに「よき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三( みつ) 寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三( みつ) 寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」( 同五五〇頁) とあります。この御文のなかに、よき法とは、いうまでもなく、末法の法華経たる三大秘法の大仏法であります。よき師とは、末法の御本仏日蓮大聖人であらせられ、また代々の血脈付法の御法主上人猊下であると拝するのであります。
 私ども創価学会は、よき檀那の立場でなくてはなりません。したがって、今日において、学会で師弟という場合、よき檀那のなかにおける指導性の問題であり、私どもにとっては、代々の会長は、折伏・弘通の師であり、現実社会における人生の師であることを銘記(めいき) すべきであります。
 この三点に基づき。広宜流布を目指す学会の教学の展開についてふれれば、その大原則は、六月三十日付聖教新聞に掲載した「教学上の基本問題について」に明らかであります。これは、猊下のご指南を得て発表したものであり、今後の展開の規範(きはん) として、さらに学習してまいる方針でありますので、よろしくお願いいたします。
 その他にもご指摘をうけております点についても、鋭意正してまいります。また今後、教学展開上の重要な問題があった場合には、御宗門の教学部に検討、指導をお願いするようにしてまいりたいと思います。
(昭和53年11月7日 創立48周年記念幹部会 大石寺)
唱題するときの姿勢
 まず第一に、人に生まれて御本尊におあいできたことに感謝し、その御報恩のために世のため、人のため、わが身のためにも如説修行をしていこうと決意することが大事であると思います。
 「寂日房御書」に「夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり」( 御書全集九〇二ページ)と御本尊を拝む人の福運を讃えておられます。
 また「法華経題目抄」には「さればこの経の題目を・となえさせ給はんにはをぼしめすべし、生盲の始めて眼をあきて父母等を・みんよりも・うれしく・強き・かたきに・とられたる者の・ゆるされて妻子を見るよりも・めづらしとをぼすべし」( 御甞全集九四二ページ)と。
以上の御書を拝しても、簡単に信心できたのではないことがわかります。
寿量品のなかにも「不聞三宝名」とありますが、三宝の名を聞くことができない、すなわち折伏してもらえない、三大秘法の御本尊にあえないままに一生を終わることが、最大の悲劇なのです。
 幸いにして、日蓮正宗の信徒となり、創価学会員として広宣流布の活動に参加できることに、無上の生きがいを感じます。
 第五十九世日亨上人は、唱題について、次のように御指南されています。
「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい。口より出す声は、早口であったり、粘口であったりしてはならぬ、落着いて確固と、尻強に中音に唱えねばならぬ。唱える数には定まりがない。多くとも少なくとも其の人の都合であるが、身体の方は両の指掌を合わせて(中略)眼は確かに御本尊に向うように、そして身体中が歓喜で、踊躍するようにありたい。御本尊と吾等と一体不二に成るまで励まねばならぬ」(「日蓮正宗綱要」)
 以上は唱題するときの心がまえですが、病気や家族の反対等で、悩むときもあります。
 それについて大聖人は「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」( 御書全集一〇八八ページ)ともおおせになっていられますので、つらいときでも、なにがあっても題目第一で、邁進することが大事だと思います。
 経文に「一心欲見仏不自借身命」とあります。大御本尊を受持し奉り、一生成仏をめざし、広宣流布のために頑張ろうと決意して唱題するならば、我が身も成仏し、この社会をも仏国土に変えることがかならずできるのです。
(私の個人指導 辻武寿)
会合で幹部の話に納得ができない点があったとき、質問すると信心がないように思われる気がするのですが。
幹部が話をするのは、皆さんが話をよく理解して、確信をもって実践行動をしていただくためであります。
 納得がいかなければ、確信がわきません。確信のない言動は、あいまいになるから相手に通じません。それゆえに、すっきりと胸におちるまで堂々と質問することが大事です。
「こんなことを聞いては笑われないかしら」とか、「信心がないように思われないか」とちゅうちょしては、自分の前進になりません。
 簡単なことのようでも、みんながよく理解していないこともあるものです。「題目を三唱するのはなぜですか」という質問ひとつにしても、だれもがつねにやっていることでありながら、説明する段になると大変深い意味をもつものなのです。
 あなたが質問することによって、他の人のなかにも、「ああそうだったのか」と理解する人もかならずあると思います。またわかっている人でも、さらに確信を深めることでありましょう。また自分の理解の浅いことに気がつく方もあるでしょう。どうか安心して自分のため、他の人のためにも質問していただきたいと思います。
 日蓮大聖人は「立正安国論」や「守護国家論」等の重要な御書を、問答のかたちで書かれております。一問一答の質問に答えるかたちで、わかりやすく説明なさったということは、この方法が理解しやすいからだと思います。
 釈尊が経文を説く場合も、舎利弗や阿難のような一人の弟子を対告衆として問答されている場面が多いようです。
 このように質問することが、信心を深めていく大変よい方
法なのですから、遠慮せず質問して、すっきりした信心の前進をしようではありませんか。
(私の個人指導 辻武寿)