日寛上人講義

四力(信力・行力・仏力・法力)
 所謂「信力」とは一向に唯此の本尊を信じ、此の本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台の所謂「但法性を信じて、其の諸を信ぜず」とは是れなり。
 「行力」と言うは、日出でぬれば灯詮無し、雨降るに露は詮無しひ今末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ち是れ「行力」なり。
 「法力」と言うは、既に迹中化他の三世の諸仏の因果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故に此の本尊の力用、化功広大・利潤弘深なるは即ち是れ「法力」なり。
「仏力」と言うは、久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を「我本立誓願」の大悲力を以ての故に一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等此の本尊を受持すれば自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆咸(ことごと)く我等が功徳と成し、「如我等無異」の悟りを開かしめたもうは、偏に是れ「仏力」なり。若し仏力・法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや。
 大論の第一に云わく「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死すること疑わざるが如く、衆生の善根も若し仏に値わざれば成ずることを得るに由無しに等云云。今此の文を解して云わく、華は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水無くんば則ち蓮華生ぜず、若し法力無くんば何ぞ信行を生ぜん。是の故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと雖も、若し日光を得ざれば則ち翳死(えいし)こと疑わざるか如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転更に疑うべからず。蓮華の若し日光を得れば則ち必ず能く栄え敷(さ)くが如く、我等仏力を蒙れば則ち信行成就して、速やかに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟の観察を借らんや。
(観心本尊抄文段 上)