功徳のある人ない人

同じ御本尊様を受持しながら功徳がある人とない人がいるように思えるのですが・・・
御本尊の功徳も慈悲も平等なのですが、信心をする私たちのほうに差があるから、そのような結果になるのです。
 歓喜で拝む人と、しぶしぶ拝む人、確信の強い人と、疑いながら拝んでいる人と功徳が同じでは、それこそおかしいので、功徳が違うのがあたりまえです。
 また過去の業の深い人と浅い人とは、同じ信心しても、功徳の出方が違うのも当然です。
 大聖人様はこの違いについて「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり」( 御書全集一二四四頁)と。
 また「日厳尼御前御返事」に「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし」( 御霄全集一二六二頁)と。
 功徳のあるなしは、日蓮のせいではない、信心が強いか弱いかによって結果が決まるのだとのおおせであります。
 また、寿量品の自我偈のなかに「行道不行道 随応所可度 為説種種法」とありますが、仏は「道を行じ、道を行ぜざるを知って、応に度すべき所に随って、為に種種の法を説く」というのであります。
 私たちも、大御本尊様の冥の照覧を信じて広布に身を捧げ、そのおほめにあずかるような信心を貫きたいものです。
(私の個人指導 辻武寿)