辻副会長指導

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略歴

戦前の創価教育学会からの古参幹部で、青年部長、参院議員など要職を務め、学会内では指導を求める会員らに信頼された存在として活躍した。


対談
 最近、大御本尊を中傷、誹謗する輩が出てきている。いつの時代になっても謗法者が絶えないのは正法である証拠ですね。そういう僻見はこれまで完膚なきまでに破折されきっている。
いわゆる日蓮宗の宗派の輩が大御本尊を中傷、誹謗しておりますが、その日蓮宗の宗派と日蓮正宗との根本的な違いは、彼らは釈迦を本尊と立てているのに対し、正宗では本門の本尊を本尊と立て、そこに南無している点
です。

阿部教学部長 全く哀れなことですね。日蓮正宗では日蓮大聖人を末法の御本仏であると立て、その魂である大御本尊を信心の対境にしております。そしてその御本尊を信ずることによって我々凡夫がそのまま成仏すると教えております。そこに末法の本当の仏法の意味があるのです。ところが他の日蓮宗では大聖人を菩薩とし、釈尊を仏に立てています。ここに根本的な狂いがあるわけです。

 彼らは、大聖人の出世の本懐とは何かが分からない。それを明らかに示されたのが弘安二年十月一日に著わされた「聖人御難事」の御書ですね。
(中略)
 その出世の本懐の御本尊が弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた大御本尊であり、この御本尊には「本門戒壇」としたためられているわけですね。

阿部教学部長 このような脇書のある御本尊は弘安二年に限らず、他には一幅もありません。

 日蓮木聖人が弘安二年の十月に出世の本懐を遂げられた機縁となったのは熱原の法難であったわけですが、その意義には深いものがありますね。

阿部教学部長 釈尊が出世の本懐である法華経寿量品を説かれる時には、地涌の菩薩が出現しております。それによって弥勒菩薩などの会座の大衆が驚天動地の驚きを示しますが、その姿を見て初めて発迹顕本の寿量品が説かれたわけです。それと同じで末法の仏・日蓮大聖人が内証の寿量品である本懐の御本尊を顕わされるには、それなりの現実の姿が出てこなければならない。
 それが熱原の法難であったわけです。一般の在家の人で、しかも身に寸鉄も帯びない農民達が大聖人の仏法を信じて命がけで修行するという外の囚縁と、大聖人の内の囚縁が一つになってそのまま人法一箇の大御本尊を顕わされたと拝することができます。ここに弘安二年に出世の本懐を遂げられた重大な意義があると思うのです。

 本門戒壇の大御本尊は一閻浮提総与の大御本尊と申し上げて、全世界の国々の人が信仰の依りどころとしていく御本尊ですから、民族を越え、国境を越えて妙法の題目を唱える地涌の友が出現することは当然のことです。
(昭和52年2月号 大白蓮華)
正宗と他宗の題目の違いは
日蓮正宗と他の日蓮宗の関係は、お金にたとえれば本物の札と偽札のような関係です。
どちらも一万円と書いてあるので似てはいるものの、実際は大違いです。本物め札はなんでも買うことができますが、偽札は見つかつたら警察から厳しく迫及されるでしよう。しかも、本物の札に似ているほど罪が大きいのです。
 同様に、お題目を唱えることは似ていますが、日蓮正宗以外の御本尊は、魔の働きになって、唱えれば唱えるほど不幸になるのは当然のことなのです。
牧口初代会長はこの違いについて次のように指導されました。
 「正宗と他宗の違いは、金や銀、銅や鉛のような違いではない。薬と毒の違いである。
正宗が一番よくて金であり、他宗は正宗ほどはよくないが銀や銅のようなものであるなら、それぞれ使い道があることになるが、そうではない。
 正宗は薬であり、他の日蓮宗は毒なのであり、信ずれば信ずるほど毒薬を飲むように、法罰をうけて不幸になる。それゆえに邪宗なのである」と。
ではなぜ他宗は偽札であり毒薬なのでしょうか。
 第一に、日蓮大聖人を御本仏と知らず、大聖人出世の本懐である弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様に帰依しないで、他の誤れる本尊を拝んでいるからです。
「聖人御難事」に「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年。天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり」(御書全集一一八九頁)とおおせです。建長五年四月二十八日に題目を弘められてより、二十七年後の弘安二年に出世の御本懐を遂げられたことは、この御文証によっても明白です。
 現在、日蓮正宗総本山富士大石寺の正本堂の中に御安置される大御本尊こそ、三大秘法の究寛中の究寛の御本尊として、第二祖日興上人以来、唯授一人、金口嫡々の御相承を受けられた代々の御法主上人によって厳護されて今日にいたるものであり、現御法主は六十七世日顕上人であります。
この日蓮正宗の戒壇の御本尊を否定したり、大聖人の御相承もないのに本尊を書いたりすれば大謗法であります。
 ましてキツネや竜神などに題目を唱えたりするのは、畜生の生命が感応して人間の振る舞いでなくなり、精神分裂も起こすことは珍しくありません。
そして第二に日蓮大聖人を尊敬するようにみえても、釈尊の弟子として尊敬したり、日蓮大菩薩などと唱えて敬っても、それはかえつて大聖人を誹ることになります。相伝のない悲しさです。日蓮大聖人は仏も仏、御本仏であり、菩薩として敬ったのでは社長を社員と思いちがいをするようなものです。
 「聖人知三世事」には「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」( 御書全集九七四頁)とおおせであり。「種種御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」( 御書全集九一九頁)とも、また「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」( 同頁) ともおおせられています。
 悪しくうやまえば、国が亡びるほどの大罰をうけるのですから、 一身一家が不幸になるのは理の当然です。正しい御本尊でなければ、拝めば拝むほど不幸になってしまいます。
(私の個人指導 辻武寿)
教学の基本について
ただいま、北条理事長より、信徒団体としての基本について確認がありましたが、私からは、これをふまえて、私どもが留意すべき点について申し上げます。
それはまず第一に、戒壇の大御本尊根本の信心に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません。日寛
上人は「就中(なかんずく) 弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐(ほんかい)の中の本懐なり。既(すで)にこれ三大秘法の随一なり。況( いわん)や一閻浮提(えんぶだい)総体の本尊なる故なり」 (観心本尊抄文段)と仰せであります。この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳粛(げんしゅく)なる化儀、伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、よく認識していかねばなりません。
その意味からも、不用意にご謹刻(きんこく)申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います。
第二には、唯授(ゆいじゅ)一人、血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重してまいりたいと思います。「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」 (御書一六〇〇頁)とありますごとく、日蓮大聖人の法体、御法門は、すべて現法主日達上人猊下に受け継がれております。ゆえに創価学会は広布を目指し、社会に仏法を弘通、展開していくにしても、その大前提として、猊下のご指南に、いっさい従っていくことを、忘れてはならないのであります。
 第三に、学会員の心情には、長い歴史のなかで、しぜんに会長への敬愛の念が培つちか) われてきましたが、また、それは当然であるとしても、その心情を表すのに、行き過ぎた表現は避けなければなりません。「法華初心成仏抄」のなかに「よき火打とよき石のかどと・よきほくちと此の三( みつ) 寄り合いて火を用ゆるなり、祈も又是くの如しよき師と・よき檀那と・よき法と此の三( みつ) 寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」( 同五五〇頁) とあります。この御文のなかに、よき法とは、いうまでもなく、末法の法華経たる三大秘法の大仏法であります。よき師とは、末法の御本仏日蓮大聖人であらせられ、また代々の血脈付法の御法主上人猊下であると拝するのであります。
 私ども創価学会は、よき檀那の立場でなくてはなりません。したがって、今日において、学会で師弟という場合、よき檀那のなかにおける指導性の問題であり、私どもにとっては、代々の会長は、折伏・弘通の師であり、現実社会における人生の師であることを銘記(めいき) すべきであります。
 この三点に基づき。広宜流布を目指す学会の教学の展開についてふれれば、その大原則は、六月三十日付聖教新聞に掲載した「教学上の基本問題について」に明らかであります。これは、猊下のご指南を得て発表したものであり、今後の展開の規範(きはん) として、さらに学習してまいる方針でありますので、よろしくお願いいたします。
 その他にもご指摘をうけております点についても、鋭意正してまいります。また今後、教学展開上の重要な問題があった場合には、御宗門の教学部に検討、指導をお願いするようにしてまいりたいと思います。
(昭和53年11月7日 創立48周年記念幹部会 大石寺)
大御本尊否定について
大御本尊を否定した法主などというのは、過去世の邪教の坊主が、広宣流布を妨害するために生まれてきた、化け物である。
(旭日の創価学会70年)