戸田会長指導

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創価学会第二代会長・戸田城聖の信仰
戸田会長は、唯一正しい信仰は日蓮正宗であり、何があっても戒壇の大御本尊を根本とすることを教えた。

戸田会長指導録

大御本尊について
なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。
( 『戸田城聖先生講演集』 上)

「されば本尊中の本尊たる一閻浮提総与の本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱題することによって末法の一切衆生は救われるのである。此の一閻浮提総与の本尊は弘安二年十月十二日の御出現であって此の本尊を拝むことこれ以外に末法の衆生は幸福になり様はないのである。」
(折伏教典104頁)

富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である。
( 『折伏教典』)

「日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあることは間違いなく(中略)これは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である」
(折伏教典218頁)

われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺(のこ)されてある。
 これは、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。
 (中略)私の願いとするところは、この弘安2年の10月12日の大御本尊様を信ずるということです。
( 『戸田城聖全集』第四巻)

御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体というのがあります。この分身散体の法というのは、創価学会を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです。」
(戸田城聖全集第4巻)

「弘安2年の御本尊は、本門戒壇の大御本尊と申し上げ、日蓮大聖人が出世の本懐として、弘安2年10月12日に御図顕になられたのであります。『聖人御難事』に、建長5年より、余は27年にして出世の本懐を遂げるとおおせあそばされています。 日寛上人は、大御本尊について 「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況(いわん)や一閻浮提(世界)総体の本尊なる故なり」(『観心本尊抄文段』)といわれています。」
(戸田城聖『聖教新聞』S27.6.10)
塔婆供養について
「形式ではありません。仏法上の儀式であります。色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。 塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙の生命に溶けこみます。色心の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業がうすくなり、苦悩を少なくしうるのです。 一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、自分の身に帰るのであります。生命論がわからなければ、この深い原理はなかなかわかりません。 自分の親にご飯を食べさせ、着物を着せてもなんの功徳もありません。親が金持ちならいくらかくれるでしょう。死んだ先祖も同じです。その先祖がほんとうの仏になって、金持ちになればくれます。金持ちにしてやるために御本尊へ題目をあげるのです。題目一ぺんが一円になるか千円になるかは信心です。」『戸田城聖全集』第2巻
人法一箇について
御本尊は人法一箇でありますが、御本尊を法本尊とし、大聖人以来の血脈付法、代々の猊下は人本尊と拝します。ですから、現在は法本尊を中心にして人本尊を拝んでいます」戸田城聖全集第4巻
創価学会の使命について
「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば車にのせて、大御本尊様の御もとに案内して行くのが、学会唯一の使命である。宝の山にはいって、宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊い使命なのである。宗教によって名誉を欲するのではない。まして、新興の宗教屋ごとき金もうけを目的とするものではないことなど、いまさら申し上げるまでもない。 」昭和24年10月24日創価学会第四回総会東京教育会館

『教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方わ識ぎ藤の前であろうと、三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとする。しこうして、日蓮大聖人のお教えを身をもってうけたまわり、忠順に自行化他にわたる七文字の法華経を身をもって読みたてまつり、いっさいの邪宗を破って、かならずや東洋への広宣流布の使徒として、私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前において死なんのみであります』(戸田城聖先生論文集 創価学会の歴史と確信)
御法主上人猊下について
「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことは、いっさい感知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者があったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる。どなたが新しく猊座に登られよう、学会会長として、私は水谷猊下に お仕えして来たのといささかも変りはない。 新猊下を大聖人様としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んで行くだけである。」昭和31年1月29日付聖教新聞・戸田城聖全集 第3巻235

「法主を宗祖大聖人としておつかえ申上げる、 どなたが法主様でも一貫不変、 これ信者の大精神。信薄き者には判らん事」昭和31年1月29日付聖教新聞・寸鉄欄

「どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。」昭和31.1.29『戸田城聖全集』第3巻236頁

「法水瀉瓶というのは、ここに二つの茶碗が、どんな形に変わっても このなかの水に瀉せば中の水は変わりないのであります。ですから、代々の御法主上人は、お人によって、いろいろとお姿は違うのでありますが、日蓮大聖人の法水が、そのまま 変わりなく移されているのであります」戸田城聖全集 第5巻439

「御法主上人を悩ましたてまつった罪は、ただ全国大折伏をもって懺悔滅罪、もっておわび申しあげる決心でおります」戸田城聖全集第三巻500ページ

「御法主上人は唯授一人、六四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる」戸田城聖全集4-P399
開眼について
「末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本仏様であらせられるのです。また、われわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これまた生身の御本仏様であります。この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネて作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐ろしい毒薬の働きをもつのであります 」
(昭和31年7月 『大白蓮華』)
御本尊書写について
御法主猊下だけが、御本尊をしたためることのできる仏様なのです」『戸田城聖先生質問会集』

「御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしょうもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。」 『大白蓮華』昭和三十四年七月号
本物とニセモノの違い
 また同じ『南無妙法蓮華経』でも、大聖人の真実のみ教えに直結していなければ、これをみな、ニセモノという以外ない。このニセモノはまた人々を不幸にすることおびただしいのである。
 身延の日蓮宗、中山の日蓮宗、仏立講、立正佼成会、霊友会等々かぞえきれないほどのニセモノがあって、盛んに人々を不幸へ不幸へとかりたてているのである。宗教にくらい愚人は、なにも知らずに地獄の道へ『ありがたや、ありがたや』とはいっていくのは、見るにしのびないのである。
 しからば、真実の日蓮宗と、ニセモノとはどこで見分けるのだ。どこに標準をおくのかというなら、大聖人のご遺言(御書全集一六○○ページ) を拝見しなくてはならない。『日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
 弘安五年壬午九月  日    日蓮在御判
           血脈の次第 日蓮日興」


 このように、日蓮大聖人の仏法は日興上人にご相伝になり、日興上人は大聖人滅後七年にして延山をお去りになって、富士郡上野村の大石ケ原をひらいて大石寺をたてられたことは、歴史の厳然たる事実である。
 その後、六百数十年、『時を待つべきのみ』とのご遺命をつつしみ、代々の御法主上人は清浄に法を守り、かつ正しく相伝して、ここにいたったのである。
 この大石寺には、日蓮大聖人出世のご本懐たる一閻浮提総与の大曼荼羅が相伝せられている。この大曼荼羅こそ末法の衆生の不幸を救う大威力のあるもので、この大曼茶羅を本としてご出現した御本尊こそ、人に強き生命力を与え、不幸を根本から救うのである。すなわち家なき者に家を、子なき者に子を、親なき者に親を、財なき者に財を、病の者には良医と健康とを与える絶対の功徳の根源である。
 邪宗の本尊は不幸の根源となり、この正宗の大御本尊は、いっさいの幸福の根源である.
 さて、われわれが、かくのごとく仏法の正邪を判断してくると、自分だけ幸福でよいとは思えない世のなかに、不幸の人は山ほどいるのであるから、この不幸の人を救わねばならぬと考えだすのは理の当然である。(戸田城聖先生指導集)