御観念文の説明

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御観念とは (戸田城聖全集第七巻)

 この観念ということは、自分の心に念じて御本尊に申しあげることであります。
 「題目をあげながら、いろいろ考えが出てくるのですが、いいでしょうか」と聞く人がありますが、悪いといっても出てくるものはしようがないでしょう。また、止めろというわけにもゆかないでしょう。しかし、御観念文をやるときには気をつけなければならないのであります。〝彼はとんでもない人だ〟などと思いながら御観念をいたしますと、「とんでもない人だ」ということを御観念申しあげていることになってしまいます。〝あいつ、後でぶんなぐってやろう〟などと思っていると、それが御観念文になってしまいます。
 口では「本門寿量品の肝心、文底秘沈の大法……」とやっていって、心のなかで別のことを考えていれば、その考えていることのほうが御観念文になるのであります。口でいっているほうが御観念文になるのではありません。


初座
 これは、朝、御本尊に向かって三度題目を唱えてから東の方に向きます。そのときには、大日天を中心にして、宇宙の大生命のうち化他行をやりませんが、自行の御利益すなわち自ら題目を唱えた功徳によってなりましたところのだ大梵天・帝釈天、あるいは増長天王。持国天王、広目天王・毘沙門天王という四天王から、あるいは大日天・大月天・大明星天・天照太神・正八幡大菩薩、その他あらゆる法華守護の諸天善神がズーンと並んでおります。その諸天善神に向かって、われわれは法味をさしあげるのであります。大御本尊を受持するがためのゆえに、われわれを日夜にお護りくださっているのは、まことにありがたいことです。こういってお礼を申しあげるのであります。
 ここに面倒なことが書いであります。諸天昼夜常為法故而衛護之、これは法華経のなかの言葉であります。諸天が昼夜に常に法のためのゆえにこれをお護りくださる、これをお礼申しあげることなのであります。
 「諸天善神、昼夜にわれわれが御本尊を受持しているがためのゆえに、創価学会員同志一同をお守りくださって、ありがとうございます」会長は、このように申しあげております。これなら、はっきりしているでしょう。
 初座の御観念文がすんで、こんどは二座で御本尊の方に向かいますと、その諸天善神が、そのなかには鬼子母神もあれば、あるいはまた夜叉もいる、みな法華守護の約束をした連中が、サアーッとわれわれの後の方に並んで控えていることになります。そして、大御本尊に向かって唱える経文、題目をきちんと聞いているのであります。荘厳な儀式であります。
 なかには、こういうことをいう人があります。あっちでも、こっちでも、この御観念文をやったら、梵天、帝釈、諸天善神がいそがしいだろうというのです。ひどい人になりますと、朝九時すぎてやったら梵天、帝釈がいなくなるなどという人があります。そんなバカな話はありません。いつでもいるに決まっております。われわれの生命のなかにも、きちんとおります。大宇宙のなかにある梵天、帝釈としてのものが、きちんと向こうへ並ぶのです。何千人やったってかまわないのであります。分身散体といいまして、仏法においてのみいわれる大哲学があるのであります。
二座
 これは仏の十号と申しまして、御本尊に向かって左の方に、「福十号に過ぐ」とある、あの十号と、この十号とは違います。あの十号は、釈迦仏法の仏の十号なのであります。ゆえに「福十号に過ぐ」とは、御本尊を信ずる功徳は、釈迦仏法の仏の福運にすぎるぞとおおせであります。
 これは末法の御本尊の十号になるのであります。御本尊の十の御徳を申しあげて讃嘆しているのであります。御本尊の別名といいますか、十のお位といいますか、十の御資格といいますか、それぞれの意味を述ベてみますと、

① 南無本門寿量品の肝心
 寿量品の肝心といえば、経文の心みたいに思うでしょうけれども、日蓮大聖人のお読みになった寿量品は生きているのであります。その生きている生命の中心が、寿量品の肝心であります。寿量品それ自体が生命であります。その肝心、それが南無妙法蓮華経だというのであります。

② 文底秘沈の大法
 寿量品の我本行菩薩道の本因初住の文底に秘し沈めてあるところの仏、御本尊というのであります。

③ 本地難思
 御本尊の本地というものは、なかなかわからないものであります。本地とは、いわば大宇宙それ自体なのであります。

④ 境智冥合
 境と智というものは冥合しなければいけません。境とは客観世界であり、智とは主観世界であります。客観世界と主観世界とがきちんと合っていなければなりません。御本尊の境は、三世にわたり大宇宙の大きさであります。智は御本仏であります。それが冥合しているのであります。

⑤ 久遠元初自受用報身
 久遠元初というのは、大御本尊の本時であります。釈迦の本時は久遠なのであります。久遠元初とは、そのまま大宇宙それ自体なのであります。時間的には無始無終であり、現在の一瞬にも含まれます。自受用報身、まず報身というのは、法身如来、報身如来、応身如来とあるうちの、報身をもって主にしますからこういいます。久遠元初の自受用報身、だれのために生まれたのでもありません。他受用報身というのは、人のためになにかしてやらなければならないというので、生まれたのをいうのであります。同じ仏でも、自受用報身とは、そのままということであります。大御本尊
は、南無妙法蓮華経そのままなのであります。それで自受用報身というのであります。

⑥ 如来の御当体
 南無妙法蓮華経如来寿量品の、その如来の御当体で、御本仏の本体であらせられる、これが御本尊であります。

⑦ 十界本有常住
 この本有常住ということを、邪宗身延あたりでは知らないのであります。邪宗身延派では勧請してきたというのでしょう。十界勧請の曼茶羅ということを邪宗ではいいます。それは間違いであります。十界本有常住というのは十界にそのまま御本尊がいらっしゃる。そのままいらっしゃるがゆえに、ほかの九界も全部そろっているということであります。これが日蓮正宗の大曼荼羅なのであります。

⑧ 事の一念三千
 事の一念二千というのは御本尊のことであります。事とは仏のおおせのままの行動を事というのであります。すなわち久遠元初自受用報身の御振舞い自体であります。その事を理論で説明しているのは、理の一念三千になります。

⑨ 人法一箇
 人と法とは離れておらないのであります。日蓮大聖人が御本尊であらせられれば、御本尊も日蓮大聖人であらせられます。人に即して法、法に即して人、これが御本尊のお姿であります。日蓮大聖人がいらっしゃらなければ、大御本尊はないのでありますから、南無妙法蓮華経といえば日蓮大聖人なのでありますから、人と法とは離れません。

⑩ 独一本門戒壇の大御本尊
 独一本門というのは、釈尊の仏法では、法華経二十八品のうち、前の十四品を述門といい、後の十四品を本門といいますが、日蓮大聖人の仏法では、この釈尊の述門も本門もあわせて迹門にあつかい、南無妙法蓮華経それ自体が本門になります。ですから独一という言葉を使うのであります。
 独一本門とは、釈尊の本門とはぜんぜん違うという意味であります。その独一本門の戒壇の大御本尊と、仏に十の讃め言葉を申しあげて、その威光倍増、御報恩謝徳のためにするのであります。
三座
 これは、日蓮大聖人にたいして、おほめの言葉を申しあげてお礼を申しあげるのであります。なぜ本因妙の教主と申しあげるかといいますならば、釈尊は本果妙の教主なのであります。末法の仏は本因妙の教主になるのであります。教主とは、仏という意味であります。本因妙の仏法のなかで、もし本因本果を立てれば、日蓮大聖人が本果妙の仏で、日興上人が本因妙の姿となります。
 仏法のうえで、法身如来の境界を説いた経文もあります。大日如来などはそうです。それから報身如来を説かれております。般若経などはそうです。あるいは応身如来を説かれております。阿含などはこれにはいります。ところが、日蓮大聖人は、法身如来であり、報身如来であり、応身如来でいらせられる。ですから、一身即三身如来にわたらせられる。また三身は即一身であらせられる。一身即三身という場合は、三身に主体がありますから、無作三身如来であり、三身即一身という場合は、一身に主体がありますから、自受用身となるのであります。
 三世常恒の御利益とは、過去、現在、未来の御利益をもたれていることであります。主師親とは、親でもあり、主人でもあり、お師匠さまでもいらせられる。一般衆生にたいして三徳をもっていられる末法の御本仏日蓮大聖人にたいして、お讃めを申しあげてお礼を申しあげるのであります。

 これは御開山日興上人に厚く御礼中しあげるのであります。法水瀉瓶いうのは、ここに二つの茶碗が、どんな形に変わっても、この中の水を潟せば中の水は変わりないのであります。ですから、代々の御法主上人は、お人によって、いろいろとお姿は違うのでありますが、日蓮大聖人の法水が、そのまま変わりなく移されているのであります。
 唯我与我の御境界とは、日蓮大聖人と日興上人とは御境界が同じだというのであります。
 仙台市仏眼寺の〝飛曼茶羅〟といいますのは、日蓮大聖人と日興上人との合作の御本尊です。

 第三祖日目上人にお礼申しあげるのであります。この方はお偉い方で、非常に邪宗との間答が巧みで、日蓮大聖人から非常に信頼をうけておりました。大聖人の代理を含め四十二度の国諌もなされています。
 御開山日興上人にもず―っとお仕えしまして、天皇折伏のため七十四歳で京都へ向かわれる途中、垂井まで行かれて、そこで亡くなったのであります。ですから、御開山上人が、一閻浮提の御座主、日本中の座主であると、譲り状に申されたのであります。
 いま学会では、登山のたびに、みなさまから御供養を願って、御小僧さんのために御供養をさしあげております。なんのためかといいますと、お山でも十一月十五日、これは日目上人の御命日ですが、小僧さん方を法主様が御招待なさるのであります。なぜかといいますと、このなかに日目上人があらわれるかもしれないという意味で、御招待をするのであります。それは広宣流布のときには、日目上人が御出現になるといういい伝えがあるのであります。もちろん、広宣流布のときには、おでかけになってくださると思います。もう出てきていらっしゃるかもしれません。

 代々の御法主上人にお礼を申しあげるのであります。ここまで仏法をつないでくださって、清くお山をお護りあそばされた代々の御正師さまに、ありがたく思ってお礼を申しあげるのであります。
四座
 四座は広宣流布の御祈念でありますが、主権が天皇陛下にあった時代には、以上のような御観念文でありました。
 天皇陛下に御本尊を持たせるために、紫震殿御本尊を日蓮大聖人はしたためられました。その紫震殿御本尊は、富士大石寺にのみ、厳然として伝えられているのであります。
 しかし、国民の一人一人に主権がある現在では、次のような御観念文になっております。また、日蓮正宗の代々の御法主上人は七百年来、もったいなくも客殿において毎夜丑寅の時刻に、広宣流布祈願の勤行をなされておられるのであります。
五座
 ここでは、われわれのすべてのお願いを、御本尊に申しあげるのであります。
 今から二十五年ほどまえに折伏した婦人のかたが、今では非常な金持ちになっておりますが、そのころは長屋みたいなきたないところに住んでいたのであります。今はりっばな家を建てて、財産は一億とかいっております。女の手ひとつであります。この婦人が最初信心したときに、ここのところへくると、リンが一間ほどすっとんだといいます。お願いごとをして、強くリンをたたくとポーンと飛んでしまう。飛ばさなければ功徳がないというわけではありませんが、そのくらいの気持ちで御祈念は申しあげたほうがいいでしょう。

 最後に、全世界が、全宇宙法界が、平等に御本尊の利益をうけて、早く自他ともに幸福な寂光土が出現するように、お願い申しあげるのであります。