基本教学

このエントリーをはてなブックマークに追加
三大秘法
 日蓮大聖人の教義の根本は、三大秘法である。三大秘法は、厳正な宗教批判の原理によって選び出された仏法の根源である。三大秘法とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目である。日蓮大聖人は、この三大秘法を広宣流布して、民衆を幸福に導くのが、最大の目的であった。
(「日蓮正宗創価学会」東京大学法華経研究会)
本門の本尊
 本門の本尊とは、日蓮大聖人が、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊である。しかして、本門の本尊には、人と法とがあり、人本尊は久遠元初の自受用報身すなわち末法の御本仏日蓮大聖人である。法本尊は事の一念三千すなわち南無妙法蓮華経である。人と法があるといっても、人即法、法即人であり、人法一体の御本尊が大曼荼羅本尊である。曼荼羅とは功徳聚すなわち功徳の集まりという意味である。
(中略)
 しかして、観心本尊抄(二五四頁) に「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為し一閤浮提第一の本尊此の国に立つ可し」とおおせられた、一閻浮提総与の大御本尊を、弘安二年十月十二日に御建立あそばされて、聖人御難事二一八九頁) には「予は二十七年なり(二十七年で出世の本懐を遂げた)」とおおせられているのである。日蓮大聖人は御入滅にあたり、御弟子日興上人に一切を御付属になった。身延相承書(一六〇〇頁) にいわく「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」第二祖日興上人は、日蓮大聖人の御付属をうけて富士大石寺の建立、御弟子の養成、国家諌暁等と、広宣流布の基をかためられて、御入滅に先だち、御弟子日目上人に一切を御付属になった。別して「日興が身に充て給わる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す」とおおせられている。また日興上人御自身が第二祖として、日蓮大聖人のおおせのままにあらわされた御本尊は二百数十幅が現在厳存し、決して一体も釈尊像などを造ってはいないのである。それより六百有余年、今日にいたるまで正しく清純に伝承されて現在は富士大石寺の奉安殿にまします大御本尊こそ、末法適時、日蓮大聖人正意の本門戒壇の大御本尊であられるのである。
(「日蓮正宗創価学会」東京大学法華経研究会)
本門の題目
 本門の題目とは、本門戒壇の大御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えて修行することである。すなわち本門の題目には、信と行がある。
 本門の題目は、戒定慧の三学のなかには慧にあたる。仏道修行は智慧を開発し、仏の知見を開かせる。智慧がないために、人生に迷い、煩悩にとざされてしまうのである。この智慧とは、物知りとか知識などとは違い、さらに奥深いものであり、実生活を向上させる強い要因である。末法の衆生はむしろ邪智になっているために、なかなか仏の智慧がわからないことが多い。そこで「信を以って慧に代える」といい、大御本尊を信じて修行していくのが慧に代わるのである。ちょうど東京の地理がわからない人でも、よく知っている大を信じて後をついて歩けば、よく知っている人と同じ結果が得られるようなものである。一般世間の人や日蓮宗各派のものは、南無妙法蓮華経と唱えることが題目だと思い違いをしているため、本尊は稲荷や竜神や釈尊像や鬼子母神など、なんでもかまわずまつっている。このような誤れる本尊を立てる宗教は、絶対に日蓮大聖人の仏法とはいえない。日蓮大聖人が三大秘法抄( 一〇二二頁) に「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五宇なり」とおおせのように、大御本尊を信ずることによって自然に働きだす修行が、本門の題目である。
(「日蓮正宗創価学会」東京大学法華経研究会)
本門の戒壇
 一般に、仏教で、戒壇とは、戒を授ける壇場をいう。日蓮大聖人の仏法では本門の本尊を安置したてまつって、信心修行に励む場所をいい、それには義と事がある。義の戒壇とは、本門の本尊が住するところを、いずれの地であっても、その義が戒壇にあたるから、義の戒壇というのである。正しく事の戒壇とは、広宣流布の晄に建立される本門の戒壇をいい、本門戒壇の大御本尊が安置されることになる。
 日蓮大聖人は末法に三大秘法の仏法を建立された。建長五年、御年三十二歳のときに題目、弘安二年、御年五十八歳のときに本門戒壇の大御本尊を建立され、本門戒壇の建立を御弟子日興上人に付属され、弘安五年十月十三日に御入滅になった。しかして、本門戒壇については、前述のように、三大秘法抄にくわしく述べた後、次のように迹門の戒壇を破折されている。三大秘法抄(一〇二二頁) にいわく「此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まって第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」と。しかして、天台・伝教の弘通したまわざる正法として、本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法が流布されるべきことをお示しである。伝教大師は迹門の理戒であり、日蓮大聖人は本門の事の戒壇であるから、伝教よりも大聖人は、さらに、勝れていることが明らかである。こうして、日蓮大聖人の仏法は、本門の戒壇建立、広宣流布こそ、究極の大目的で、そのために、戒壇の大御本尊も建てられ、後世に御相伝されているのである。
(「日蓮正宗創価学会」東京大学法華経研究会)
血脈について
血脈については、法体の血脈と信心の血脈等がある。御書に「生死一大事血脈抄」がある。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」と仰せである。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味である。
 この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところである。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法華蓮経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せ
なのである。故に、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となる。
故に、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたい。

 一、昨年、発表された会長の「生死一大事血脈抄講義」は、こうした原理を踏まえたうえで、総じての仏法実践のうえでの生死一大事の信心の血脈を中心に、一般社会に展開したものであるが、別しての法体の血脈相承について深く論ずることをしなかったために、誤解を生ぜしめる点もあった。これについては、会長からの意向もあり、一部訂正して改訂版を発行するので了承願いたい。これに関連して、以下の各項目についても法義を誤らぬよう確認しておさたい。

 一、かつて「途中の人師、論師を根本とすべきでない」と表現したことがあった。この人師、論師は唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではない。我ら末弟は「日興遺誡置文」の「富士の立義柳も先師の御弘通に違せざる事」と仰せのごとく、御本仏日蓮大聖人の御弘通のままにということを強調する意味であった。その日蓮大聖人の仏法の正統の流れは、第二祖日興上人、第三祖日目上人、そして第六十六世の現御法主日達上人猊下の御内証に流れていることは、いうまでもない。
 したがって、こうした唯授一人の血脈に触れずに論ずるような表現は決して使わないようにしたい。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
大聖人直結について
 「大聖人直結」ということについては、大聖人即三大秘法の御本尊に南無し奉り、境智冥合するとの意味で述べたものである。したがって唯授一人、遺使還告であられる御法主上人猊下を通して大聖人への直結は当然であると拝したい。

 一、「本因本果の主」は、久遠元初自受用報身如来の再誕であられる末法御本仏日蓮大聖人の御事である。また正宗においては、一往三妙に分けるなら、本果妙とは日蓮大聖人であられ、本因妙とは日興上人、本国土妙とは大日蓮華山である。しかし文底の三妙合論の上では、御本尊のことであり、日蓮大聖人の御当体に具わるのである。故に、大聖人を本因本果の主といわれるのである。この根本
の本因本果の関係を一般的に我々の人間関係について使うのは慎みたい。

 一、牧囗初代会長と戸田前会長のあいだに師弟の血脈があったといった趣旨の表現は、あくまでも一次元として広宣流布達成への師弟の決意と約束と実践を通しての表現であった。ただ、こうした場合の血脈という言葉は使わないようにしたい。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
戸田会長〝獄中の悟達〟について
 戸田前会長の、いわゆる″獄中の悟達” については、どこまでも大聖人の仏法を古今の教えのなかで最高のものであるということを悟り、大聖人の南無妙法蓮華経を広宣流布していくべき使命の自覚に立たれたということである。すなわち南無妙法蓮華経の大慈大悲に包まれた境涯に感涙したという意味であった。それが日蓮大聖人の御内証と同じであるとか、大聖人の仏法とは違う仏法を創造したと受け止めてはならない。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
戸田前会長の「仏とは生命なり」
一、戸田前会長が「仏とは生命なり」と叫んだということの意味は、キリスト教のように神を遠くに置き、神になれないといった考え方に対し、大聖人の仏法では、我が生命に仏界があると説かれている。その大聖人の仏法の深遠な偉大さを、透徹した信心で確信したとの意味である。すなわち御本尊への唱題によって、一切衆生に仏性があるということを実感したことの、一つの表現である。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
会長本仏論について
一、末法の御本仏が日蓮大聖人お一人であられることは「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」との御金言のごとく、末法万年にわたって変わらぬ根本義である。また学会の半世紀にわたる苦闘の歴史は、すべてこの日蓮大聖人が末法御出現の御本仏であることを、折伏をもって世界に知らしめてきた。
 日常の自行において、また化他行において、すべて日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、日蓮大聖人の魂をとどめられた御本尊を信心の根本対境とし、日蓮大聖人の仏法の広宣流布を実践の大目的としてきたのが、学会精神の骨髄である。
 故に、学会には本来、会長本仏論などということは絶対にない。
 歴代会長を折伏弘教、広宣流布の指導者として尊敬し、またさまざまの指導をうけ、心からの信頼を寄せていることは、会員の自然の心情である。そのことを宣揚するあまり、あたかも大聖人と等しいがごとく受け止められる過大な言葉や表現を用いることは、厳重に慎まなければならない。

 一、戸田前会長のことを「地涌の菩薩の棟梁」といったことがあるが、これは在家における折伏弘教のうえの指導者という意味で使った。戸田前会長自らいわれた言葉でもある。
 
 ただし、不本意ながら、文は意を尽くさずで、要旨としてまとめたとき、文脈上、上行菩薩の再誕即御内証は久遠元初自受用報身如来の再誕・末法の御本仏日蓮大聖人に通じるかのような文体となってしまった場合もあった。したがって、今後こうした言葉づかいについて十分注意していきたい。
 また、我々が地涌の菩薩というのは、御書の「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との御文等によったのであり、この表現自体は許されると考えられる。
 しかし、それは総じての立場であり、別しての日蓮大聖人に対するときは、地涌の菩薩の眷属というべきである。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
「人間革命は現代の御書」
一、「人間革命は現代の御書」という発言については、会長もすでに明確にしているように、明らかに誤りである。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
僧俗の関係について
一、昨年の一月十五日の第九回教学部大会における「仏教史観を語る」と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものである。
 今日、これだけの在家集団ができあがつたことは、仏法史上、画期的なことである。しかし、このことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことは、まことに遺憾である。そうした考えはもとよりない。

一、この講演の文中「葬式だけを行い我が身の研鑚もしない… … 」とあるのは、日蓮正宗僧侶を目して述べたものではなく、日蓮正宗以外の一般仏教界の多くの姿を語ったものである。したがって「既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でなく、道場でもない」というのも、正宗の寺院を言ったものではないことをご了承願いたい。しかし、そういう印象を与えたとすれば、まことに遺憾である。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
在家も供養を受けられるについて
一、繿摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じぐ仏に捧げる意味である。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとはいえない。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外はない。したがって、在家が供養を受ける資格があるという記述は改める。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
「僧宝」について
一、「僧宝」とは、正宗においては第二祖日興上人のことであり、また会長も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられる。したがって、この正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。
 また、広義においても、学会を「僧宝」という言い方はしてはならない。
(教学上の基本問題について6・30 「研修シリーズ14」)
根源の師について
 私どもの生命の根源的練磨のための根本の師は大御本尊、そして御本仏日蓮大聖人であられます。三世にわたる永遠の師は、これ以外にありません。そのうえに立って、この現実社会に御本尊を教え、御書を身をもって教えてくださった初代会長・牧口先生、二代戸田先生は、私どもの人間革命の先駆者であり、広布弘教の師であることを、ゆめゆめ、忘れてはならないと申し上げておきたいのであります。
(「創価学会入門」昭和52年発行)
基本教学2へ→